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北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国) (People s Pepublic of Korea) 面積:12万538平方キロ 人口:2400万人 首都:平壌(Pyongyang) 言語:朝鮮語 テレビ:120万台 ラジオ:300万台 国土は北海道(7万8515平方キロ)を2つ合わせたより ふたまわりほど小さい。 ラジオは3軒に1台。テレビは7~8軒に1台と少ない。 世界で最も貧しい国と言われているバングラデシュと いい勝負。 朝鮮中央テレビ:1日7時間放送 朝鮮教育文化テレビ:1日3時間放送 万寿台テレビ:土・日のみ9時間放送、平壌向け 朝鮮中央放送(ラジオ):1日22時間放送 平壌放送(ラジオ):1日22時間30分放送、韓国向け 平壌FM放送(ラジオ):1日16時間放送 国際放送(RadioPyongyang):1日50時間程度放送 平壌市内向けに中波でも放送している 停電が多いことや放送内容からテレビやラジオを 持っていてもあまり意味がない。 本日のメディア用語 アンカー(Anchor) ニュース番組でニュースを読み、全体の進行をつとめる 番組の中心的役割をする人物。 アンカーマン(Anchorman)ともいう。 ヨーロッパではモデレーターという。 -
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ベンキツ(卞吉) 封神演義に登場する人物。 商の部将で左道術者。 関連: ベンキンリュウ (卞金竜、父)
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Template 朝鮮の事物? 朝鮮銀行(ちょうせんぎんこう、朝鮮語:Template lang?)は、日本の特殊銀行の一つである。略称は鮮銀(せんぎん)。 前身 近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化した。 第一次日韓協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、民間銀行に過ぎない第一銀行が外国の中央銀行業務を行っている事を問題視して韓国統監伊藤博文との相談した結果、日韓併合直前の1909年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立された韓国銀行条例(韓国法)に基づく中央銀行・韓国銀行が設立されて、第一銀行から中央銀行業務を取り上げた。その韓国銀行は併合後の1911年には朝鮮銀行法(日本法)に基づく特殊銀行として朝鮮銀行と改称された。 なお、日韓併合時に、日本銀行券を朝鮮にも流通させようという意見が有力であったが、元老で財政通として知られていた松方正義が、「朝鮮経済の不安定さがそのまま内地に影響するのはまずい」との見解を示したことから朝鮮銀行券を発行することになったという。 業務 朝鮮銀行は日本政府から保護を受けて、朝鮮銀行券を発行して金貨・銀貨・日本銀行券との兌換が保障されていた。民間の普通銀行と同じような融資・手形割引などの業務も行ない、朝鮮総督府に対する資金の貸付も行った。だが、密かに日本国内企業への貸付も行って、朝鮮における産業育成という設立当初の目的から逸脱した行動をするようになり、第一次世界大戦終結後に長く続いた不況で融資の焦げ付きが明るみに出た。これに激怒した日本政府は1924年に監督権を朝鮮総督から大蔵大臣に移して、日本銀行からの緊急融資を受けて事態を乗り切った。 一方、日本軍とともに占領地へ進出したため朝鮮以外に内地及び満州、中国北部及びシベリアに支店等を持った。後に満州に関しては満州国と折半で満州興業銀行を設置して業務を譲渡している。1938年には華北を中心に中国聯合準備銀行が創設され相互に架空の預金を持ち合ったことにして大量に軍事用の通貨を発行し満州の軍閥の発行した通貨の整理を図った。だが、戦局の拡大とともに戦火を直接受けなかった朝鮮半島では、景気が上向いて朝鮮銀行の経営状態も改善されて1943年には不良債権の一掃を果たした。 戦後 right|250px|thumb|現在は韓国銀行貨幣金融博物館となっている[[ソウル特別市|ソウルの旧朝鮮銀行本館]] 第二次世界大戦後閉鎖機関に指定され解散した。朝鮮にあった資産は米ソ両軍政府が接収し、のちにその一部は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の中央銀行である韓国銀行・朝鮮中央銀行に払い下げされた。また日本国内の残余資産により設立された銀行が日本不動産銀行(後の日本債券信用銀行(日債銀)、現:あおぞら銀行)である。 朝鮮の資産は、未だ閉鎖機関朝鮮銀行の資産であり、接収解除後に、財務大臣が清算人を選任し、朝鮮銀行法により清算を行う。 なお、戦後に在日朝鮮人によって設立された朝銀信用組合・在日韓国人によって設立された商銀信用組合(いずれも信用組合)との関係性は無い。 発行紙幣 第一銀行期 1902年(明治35年)制定(同年5月31日、大蔵省に提出)の「株式会社第一銀行券規則」に基づいて発行。 旧10円券(1902年12月20日発行)、旧5円券(1902年8月20日発行)、旧1円券(1902年5月20日発行) ※ 日本語で「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」の記載あり。 ※ 図案はいずれも渋沢栄一。 1903年(明治36年)改正(同年6月8日、大蔵省に提出)の「株式会社第一銀行券規則」に基づいて発行。 新10円券(1904年9月1日発行)、新5円券(1904年9月1日発行)、新1円券(1904年9月1日発行)、50銭券(1904年6月発行)、20銭券(1904年6月発行)、10銭券(1904年6月発行) ※ 日本語で「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」の記載あり。 ※ 図案は10円券・5円券・1円券が渋沢栄一、50銭券・20銭券・10銭券が鳳凰と竜。 ※ 50銭券・20銭券・10銭券は、1912年3月31日限りで通用禁止。 ※ 100円券・50円券の発行も計画されたが、実現しなかった。 1905年(明治38年、光武9年)勅令第73号「株式会社第一銀行ノ韓国ニ於ケル業務ニ関スル件」に基づいて発行。 改造10円券(1909年1月4日発行)、改造5円券(1909年7月1日発行)、改造1円券(1908年8月1日発行) ※ 「大韓国金庫 株式会社第一銀行」との記載があり、急速に普及した。 ※ 「光武九年一月大韓国政府の公認に依りて公私去来に無制限で通用す」(各券共通、朝鮮語)、「明治三十八年勅令第七十三号に依り発行するもの也」(1円券、日本語)、「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」(各券共通、日・朝両語)の記載あり。 ※ 図案は10円券が昌徳宮宙合楼、5円券が景福宮光化門、1円券が水原華城華虹門。 韓国銀行期 1909年(明治42年、隆熙3年)韓国法律第22号「韓国銀行条例」に基づいて発行。 10円券(1911年8月1日発行)、5円券(1911年8月1日発行)、1円券(1910年12月21日発行) ※ 朝鮮語で「隆熙三年七月法律第二十二号韓国銀行条例を遵奉して発行す」、「此券と相換で金貨或は日本銀行兌換券にて金○円を出給す」の記載あり。 ※ 図案は第一銀行の改造券の各券種と同じ。 朝鮮銀行期 1911年(明治44年)法律第48号「朝鮮銀行法」(同年8月15日施行)に基づいて発行。 100円券(1914年9月1日発行、図案は大黒天)、10円券(1915年11月1日発行、寿老人)、5円券(1915年11月1日発行、寿老人)、1円券(1915年1月4日発行、寿老人) ※ 日本語で「明治四十四年三月法律第四十八号朝鮮銀行法ヲ遵法シテ発行スルモノ也」、「此券引換に金貨又は日本銀行兌換券○円相渡可申候也」の記載あり。 ※ 寿老人の肖像は朝鮮の政治家・思想家である金允植をモデルとしたものといわれている。 改造100円券(1938年12月1日発行)、改造10円券(1932年6月1日発行)、改造5円(1935年6月1日発行)、改造1円(1932年1月4日発行) ※ 図案はすべて寿老人。 1942年(昭和17年)法律第67号「日本銀行法」に基づく内地での不換紙幣発行に関連して発行(記号・番号あり)。 甲100円券(1944年11月1日発行)、甲10円券(1944年2月1日発行)、甲5円券(1944年2月1日発行) ※ 日本語で「此券引換に日本銀行券○円相渡可申候也」の記載あり。 ※ 図案はすべて寿老人。 記号のみで番号が省略された紙幣の発行(1944年以降)。 甲10円券(1944年5月10日、11月15日(漉かし変更)発行)、甲5円券(1945年2月15日発行)、改造1円券(1944年10月15日発行) ※ 図案はすべて寿老人。 太平洋戦争終戦(1945年8月15日)直後の発行(番号なし)。 乙100円券(1945年9月1日発行)、乙10円券(1945年12月10日発行)、乙1円券(1945年10月10日発行) ※ 図案はすべて寿老人。 ※ 1000円券の発行も予定された(1945年9月1日、図案は寿老人)が、中止された。また、台湾銀行と同様に、日本銀行券の甲1000円券(図案は日本武尊)に「朝鮮銀行券」と加刷した1000円券の発行も予定された(発行予定日は不明)が、中止された。 参考文献 多田井喜生『朝鮮銀行 ある円通貨圏の興亡』(PHP新書、2002年) ISBN 4569620256 関連事項 台湾銀行 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 16 55。
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元朝鮮人女子勤労挺身隊員に対する損害賠償等請求控訴事件・控訴人準備書面(1) ソース:http //www.geocities.jp/teisintainagoya/kouso/kousokeika/zyunbi1.pdf 【小目次】 第8 朝鮮女子勤労挺身隊動員の特殊性1 朝鮮女子勤労挺身隊動員と他の朝鮮人戦時労働力動員とは 2 動員過程での欺罔や、動員後の劣悪な労働条件・・・ 3 戦後の被害の原因 第8 朝鮮女子勤労挺身隊動員の特殊性 1 朝鮮女子勤労挺身隊動員と他の朝鮮人戦時労働力動員とは 本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員と他の朝鮮人戦時労働力動員とはどのような共通点があり、どこに違いがあるのだろうか。 最大の違いは、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員が幼い少女であり、学校における皇民化教育の結果、自らを日本国家と一体化させることによって積極的に志願したことにある。 1910年の韓国併合以降、朝鮮は日本の植民地とされた。しかし、実際には朝鮮と日本は歴史、書籍、文化、社会構成などが違い、皇民化政策によっても一般の朝鮮人は朝鮮語を使い、朝鮮文化を保持していた。朝鮮人として戦時労働動員された大部分の人々も同様に朝鮮語で暮らし、食事、住宅、衣服も朝鮮式の伝統を守っていた。朝鮮人戦時労働動員者を集めて郡長などが動員について訓示、説明をするときも朝鮮語で行うか通訳をつけなければならない状況であった(山田・古庄・樋口『朝鮮人戦時労働動員』273頁)。 このような戦時労働動員された朝鮮人にとって、日本への戦時労働動員は 「自主的」「自発的」なものではなく、朝鮮の農村の経済的窮迫状況と戦時労働動員に向けての行政的圧力、皇民化政策による心理的圧力などにより、中には暴力的な強制によって、行われてきたものである。前述の戦時労働力動員に対する抵抗闘争の広がりが、一般民衆がどのように戦時労働力動員を受け止めていたかを表している。 これと比較して、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員は、学校を通じた「募集」に応じたもので、自ら積極的に志願したものもいる。しかし、そのことは、本件朝鮮女子勤労挺身隊の動員が自主的、自発的なものであったことを意味しない。控訴人らが語っているように、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員たちは、朝鮮における皇民化教育を受け、人格の形成期において日本に尽くすことこそ何より重要だと教えられ、それを文字通り信じていたものである。しかも、彼女達の親が日本へ行くことを知った際には、いずれも死に行くことだと言って 強く止めているのである。しかし、一旦、応募した控訴人らに撤回は認められず、親を刑務所に入れると脅され、日本に来たのである。ここには、皇民化教育によってマインド・コントロールされた姿と植民地支配の下での強権的支配が作用している。 2 動員過程での欺罔や、動員後の劣悪な労働条件・・・ しかも、動員過程での欺罔や、動員後の劣悪な労働条件、動員先での監禁状態、労働後の貸金未払いなどは他の朝鮮人戦時労働力動員と共通性を持っているのである。 つまり、表面上現れる本件の自発的応募は、皇民化教育によって洗脳された結果によるものであり、その年齢を考え併せれば、到底、真の意味での「自発的」でも「自主的」でもなかった。むしろ、人格自体に強く働きかけを受け、他民族である日本や日本人を強く信じ込まされ、自らの民族や国家を侵略され植民地とした日本政府の行為を正当な正義にかなったものと確信させられ、それに疑いをもたず協力させられたという点で、権力的な強制や暴力よりも一層深刻な働きかけであったということができ、そのことが今日まで続く、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員の精神的な苦痛につながっているのである。 結局、他の朝鮮人戦時労働動員と本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員は同様、日本政府と企業によって植民地権力を背景にして、民族差別を利用した労働動員であったのである。 3 戦後の被害の原因 以上のとおり、本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員は民族差別に基づいた動員である点で他の朝鮮人戦時労働動員と共通性を持つ。しかし、それにとどまらず控訴人らが日本に行けば学校に行ける、高い賃金ももらえるという点に強い憧れを抱いたように、当時の朝鮮において女性が置かれていた地位や賃金の劣悪さなど、民族差別のみでは語り尽くすことのできない性差別も一方にあった。しかも、軍慰安婦動員が軍と朝鮮総督府の関与の下大量に実施されたために生じた民衆の中の恐怖が、広範に使用された「挺身隊」という用語や「処女供 出」という言葉がもたらすイメージも相侯って、戦後には裏返しのように、控訴人ら日本から返ってきた女性に対する冷たい眼として作用したのである。 本件で戦後の朝鮮女子勤労挺身隊員たちが辿った悲惨な人生の被害を同一視被害と呼んでいるが、「誤認されたこと」や「混同されたこと」が被害だと主張しているのではない。むしろ、その結果、強いられた家族との関係の破壊や過去の体験を語れず、人目を忍ぶように生きなければならなかった戦後の悲惨な人生が、その悲惨さにおいて軍慰安婦とされた被害者と共通する被害であると主張しているのである。 indexへ
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Language Isolate 孤立言語 *Retired This page has been retired. Language Isolate Abinomn【bsa】— Ainu【ain】—アイヌ語 Andoque【ano】—アンドケ語 Bangime【dba】— Burmeso【bzu】— Burushaski【bsk】—ブルシャスキー語 Camsá【kbh】—カムサ語 Candoshi-Shapra【cbu】—カンドシ=シャプラ語 Canichana †【caz】—カニチャナ語 † Cayubaba †【cyb】—カユババ語 † Centúúm【cet】— Gilyak【niv】—ギリヤーク語 Itonama【ito】—イトナマ語 Karkar-Yuri【yuj】—カルカル Kibiri【prm】—キビリ語 Korean【kor】—朝鮮語 Korean, Middle †【okm】—中期朝鮮語 † Korean, Old †【oko】—古代朝鮮語 † Kutenai【kut】—クーテネイ語 Leco【lec】—レコ語 Movima【mzp】—モビマ語 Muniche【myr】—ムニチェ語 Nihali【nll】—ニハリ語 Odiai【bhf】— Páez【pbb】—パエス語 Pankararú †【paz】—パンカラルー語 † Puelche【pue】—プウェルチェ語 Puinave【pui】—プイナベ語 Sumerian †【sux】—シュメール語 † Taushiro【trr】— Ticuna【tca】—チクーナ語 Tinigua【tit】—ティニワ語 Tol【jic】—トル語 Trumai【tpy】—ツルマイ語 Tsimané【cas】—チマネ語 Tuxá †【tud】—トゥシャ語 † Urarina【ura】—ウラリナ語 Waorani【auc】—ワオラニ語 Warao【wba】—ワラオ語 Yale【nce】— Yámana【yag】—ヤマナ語 Yuchi【yuc】—ユチ語 Yuracare【yuz】—ユラカレ語 Zuni【zun】—ズニ語 言語名別称 alternate names 孤立した言語
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目録作成お役立ちリンク集(言語別) 日本語 流用できる書誌データを探す NDLOPAC(国会図書館) 一から書誌データを作る Genii(NII) 科研等の情報を調べることができる NIIマニュアル等 「韓国・朝鮮語資料の取扱い」(2002.1.31)PDF版 「韓国・朝鮮語資料の取扱い」解説 (2002.1.31)PDF版 韓国語図書の目録作成時における助詞入力の事例 流用入力時の注意事項(KORMARC) その他 BSH Suggest (BSH4キーワード検索)実験中 NDLSH Suggest (NDLSH2005キーワード検索)実験中 NDC Suggest (NDC9 分類検索)実験中以上,大阪市立大学学術情報総合センター基盤支援研究(村上研究室) 作成
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朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)は、1910年(明治43年)、日韓併合によって、日本の領土となった朝鮮を統治するために当時の日本政府が京畿道京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮の敷地内に設置した官庁である。 韓国統監府を前身とし、大韓帝国政府の組織を改組・統合したが主要高官はほぼ日本人であった。初代総督は寺内正毅。総督は日本の現役の陸軍大将か海軍大将が歴任した。1945年太平洋戦争における日本の敗戦に伴い連合軍の指示により業務を停止。その権限はアメリカ軍政庁に引き継がれた。 総督府により、言論の制限や結社の禁止、独立運動などへの取り締まり等が行われた ref name= 相賀 相賀徹夫著・編『日本大百科全書 15』1987年 小学館フランク・B・ギブニー著『ブリタニカ国際大百科事典 13』1974年 TBS-Britannica 下中直人編『世界大百科事典』1988年 平凡社。インフラの整備が行われ結果として伝染病の予防や出生率の増加におよび ref name= 朝統 朝鮮総督府『統計年報』 ref name= 文雄 黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社、教育施設では皇民化教育、日本語やハングル ref name= 基鎬 崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』詳伝社の教育が進められた。これらの政策や事業に対しては批判する意見と評価する意見がある。 概要 朝鮮総督は天皇に直隷し、朝鮮における軍事権、立法権、行政権、司法権を掌握し、広大な権限を行使した。朝鮮総督府には政務総監、総督官房と5部(総務、内務、度支、農商工、司法)が設置されたほか、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局(朝鮮総督府鉄道)、専売局、地方行政区画である道、府、郡など朝鮮の統治機構全体を包含していた。朝鮮総督の政策は、日本の利益を最優先とし、植民地を日本に同化し満州進出の基礎とすることを目的としたものであり、現地文化に対して極めて否定的な態度をとり、総督府統治に反対する朝鮮独立運動を厳しく取り締まった ref name= 宮田 / 。 日本政府は朝鮮を内地と同様の経済水準に引き上げるため、多額の国家予算を朝鮮半島に投資した。鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場などのインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島の近代化に役立っていったCumings Bruce (1984a), The Legacy of Japanese Colonialism in Korea in Myers, Ramon H. and Mark R. Peattie (Editors) The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, Princeton Princeton University Press。こうした結果、朝鮮半島で流行していた伝染病が予防され、農地の開発等により食糧生産が増加(併合当初米の生産量が約1千万石であったものが、20年後には2千万石へと倍増)したことにより、朝鮮半島の人口は、併合前の1906年には1600万人程度だったものが1940年には2,400万人程となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びることとなった ref name= 朝統 / ref name= 文雄 / 。 朝鮮における経済開発は主として日本の工業化を補完する目的で行われ、高い経済発展とは裏腹にその果実の大部分が在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低かったとする研究者もいる「日本の植民地支配 肯定・賛美論を検証する」p34~37。また植民地一般の傾向にもれず、植民者たる在朝日本人と原住民たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きいものがあったと主張する者もいる「日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済」。 政策の変遷 朝鮮総督府の初期の政策は「武断政治」と呼ばれた ref name= 馬場 馬渕貞利「朝鮮総督府」『世界大百科事典』日立デジタル平凡社、1998年。『日本史B用語集』山川出版社2000年。 ref name= 宮田 宮田節子「日本の朝鮮統治」『大日本百科事典』。武断政治は、植民地同化政策に反対する独立運動弾圧のために政治活動を一切禁止し、徹底した軍政のもと植民地統治の基礎を作ることを目的とした。このため朝鮮に日本の憲法を施行せず軍の大権により統治するとした。総督の命令(制令)が司法・行政・立法の全機能を有し、帝国議会の議決は不要とされた。言論、集会、結社の自由も、(国際世論への配慮のため)一部のキリスト教徒を除き大きく制限され、朝鮮警察事務をすべて日本軍に委任し、通常の警察でなく軍の憲兵(軍事警察)が一般警察官を兼ねるとした(併合年で憲兵は2019名。その内1012名は朝鮮人であった)。憲兵は一般の朝鮮人に対して極めて威圧的な制度だったと言われている。具体的にはスパイや義兵鎮圧の名目で、法的手続なしに朝鮮人を逮捕し処罰出来るものであり、朝鮮人の日常生活に関与した ref name= 馬場 / 。 憲兵は一般行政事務として「日本語普及」や徴税も行い、農事改良をし、「所有者のいない」農地を接収した。総督府は土地所有者の調査を進め、所有者のいない土地は接収し、東洋拓殖に買い取られ、進出した日本人や現地有力者に分配された。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである山本有造『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会。李氏朝鮮時代の韓国は、農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていた。日本は朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益をもたらすようになった朴泰赫『醜い韓国人』。大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の儲けを得ていた。その代表例はサムスングループの創始者である李秉喆である。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していったKBS WORLD。その反面、農民が土地を手放し、困窮した人々が満州や日本国内、ロシア沿海州などへ移住する結果となってしまったとする論もあるTemplate 要出典?。また土地調査事業は、申告主義による所有権確立が目的だったが、周知の不徹底や課税を恐れ不申告の土地が多数有ったTemplate 要出典?。結果的に多くの土地が国有地に編入され、朝鮮の農民の多くが土地の所有権を喪失したとする研究者もいる『東洋史辞典』東京創元社、1980年p.577。「朝鮮土地調査事業」の項。。逆にソウル大学の李栄薫教授は、韓国で教えられている「日帝による土地収奪論」は神話であり、客観的数値で見ても日本が編入した朝鮮の土地は10パーセントに過ぎないとしているソウル大教授、日本による土地収奪論は神話。 李氏朝鮮では庶民に対する教育をする機関がほぼなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができなかった。また朝鮮では両班を中心に漢字が重視されており、ハングル(朝鮮語)は軽視され、普及していなかった姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』朝日文庫姜在彦『朝鮮の歴史と文化』明石書店。そうした中、日本は朝鮮語教育に力を入れ、ハングルを学校の必修科目とした。朝鮮民衆に八ングルが広まったのは、日本の政策の結果であったとする者もいる ref name= 基鎬 / 。その一方、日本語教育など同化政策も進められていた。 選挙権・被選挙権に関しては、属地主義を採っていたため、朝鮮半島では権利はなかったが、内地においては朝鮮人にもこれらの権利が与えられた。そのため衆議院議員の朴春琴をはじめ、貴族院議員には通算10人の朝鮮人議員が任命されている。また地方の郡守、面長(村長に相当)は原則として朝鮮人であった杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』。 石窟庵等の遺跡、総督府庁舎の置かれた景福宮等が破却や損傷を受けており、慶熙宮のように完全に破却された宮殿もあった ref name= tanaka 田中禎彦「20世紀前半の朝鮮総督府による朝鮮の歴史的建造物の調査保存事業について」『日本建築学会計画系論文集』594号 日本建築学会 2005年8月p.207-214 ISSN 13404210が、景福宮正門であった光化門完全に撤去する予定だった ref name= tanaka / が、日本の柳宗悦など一部の文化人の反対により宮殿東側に移築されていた。や崇礼門など、保存運動などによって保存された建造物もあった。また、北関大捷碑など各地にあった文化財も日本により朝鮮半島外へ持ち出されることがあった ref name= tanaka / 。 1919年の三・一独立運動後、日本内地における大正デモクラシーの影響もあって「武断政治」は融和的な「文化政治」(文化政治参照)に転換するが、1937年に日中戦争が勃発すると朝鮮でも戦時体制下で皇民化政策この一環として、日本語の普及を目指した「国語常用」運動があり、最終的に朝鮮語の公教育からのほぼ完全な追放へとつながった(熊谷明泰「賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動」(PDF)『関西大学視聴覚教育』29号2006年3月31日p.55-77 。ISSN 13431099が推進され、日本が敗戦を迎えるまで各種の人的資源の動員や、様々な資源、食糧の日本への大量移送などが行われた ref name= 宮田 / 。朝鮮人の中には軍人・軍属として第二次世界大戦に参加した者(朝鮮人志願兵含む)や、「従軍慰安婦」として働いた朝鮮人女性も存在した。 警察機構 当時韓国統監であった寺内正毅は併合直前の1910年7月に明石元二郎憲兵隊司令官に警務総長を兼務させることによって憲兵と普通警察を一体化した。これを憲兵警察制度という。韓国併合年で「憲兵警察」と「一般警察」を合わせて、7712名(その内、朝鮮人は4440名)。「憲兵警察」は2019名(その内、朝鮮人は1012名)であった水田直昌監修『統監府時代の財政』122頁。 朝鮮全土に日本軍や警察が配置され、憲兵以外の軍人も統治や警察活動を行った。丁度その頃に開設された西大門刑務所は、独立運動家を多く収容したことで知られているTemplate 要出典?。朝鮮独立を求める運動や日本支配への抵抗運動は厳しく取締りが行われた ref name= 馬場 / 。憲兵警察は文化政治への転換に伴い廃止される。朝鮮総督府警察は普通警察に移行した後も、日本内地の警察には無い機関銃、野砲等の重装備を保有しており、日本の支配が及ばない中国領から越境してくる独立派武装勢力との戦闘を行うTemplate 要出典?など警察軍的性格を有していた。 文化政治 三・一独立運動に衝撃を受けた日本政府は、武力だけで朝鮮支配は不可能と判断し、また大正デモクラシー期における政党内閣の登場や、武断政治批判の日本国内世論にも配慮し、武断政治を一部変更した。原敬首相は、長谷川好道総督を更迭し穏健派の斎藤実総督(海軍大将)を任命した。民族運動の要求を一部受容し、運動を分裂・弱体化させることで安定的支配を構築することを目指したが、政策の基本は内地延長主義、すなわち同化主義であり、朝鮮と日本内地の制度的差別を縮小し、現地の不満を減少させ同化をはかるものであるTemplate 要出典?。 1919年8月20日勅令により総督武官制を廃止し、制度上は文官でも総督就任可能としたが、実際には実現せず、斎藤以外の総督はすべて陸軍大将だった。また普通警察制度への改編をはかり、憲兵警察を廃止したが、多くの警察が日本から派遣され警察官は1919年の6,387人から1920年には20,134人へと急増した。独立運動の監視体制はむしろ強化された ref name= 相賀 / 。言論や結社の自由はやや緩和され、韓国語の新聞・雑誌の発行が認められた。この時代には朝鮮人による合法的民族運動が盛り上がり、朝鮮文学の発展や大都市における大衆文化の発達が見られたTemplate fact?。ただし同化教育はさらに推進され、学校での朝鮮語の時間は減少し、かわりに日本語の時間を増加させた ref name= kumatani 熊谷明泰「賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動」(PDF)『関西大学視聴覚教育』29号2006年3月31日p.55-77 。ISSN 13431099。。1938年4月1日からは小学校教育における教授用語が日本語に限定された(小学校令16条8号)。小学校未就学の青年には「朝鮮特別青年錬成所」への一年の入所を義務とし、600時間の教育を行った。このうち日本語教育が400時間を占めた ref name= kumatani / 。 1924年には京城帝国大学が開設され、Template 要出典範囲?。大学内では日本人学生が6割以上を占め、教育内容は日本文化中心であった。1940年4月には「忠良有為ノ皇国民ヲ錬成スル」という目的を掲げた『国史大辞典』第5巻、吉川弘文館1984年P.42上沼八郎「京城大学」の項。。 職員 台湾総督府をはじめとする他の外地政庁と異なり、朝鮮総督府は大韓帝国政府の機構を殆どそのまま継承したため、最初から多くの朝鮮人官僚を抱えていた。 王公族・朝鮮貴族 特権的身分制度が設けられ、韓国の旧皇族は王公族に、韓国併合に功績あるものは朝鮮貴族となった。 庁舎建築 1995年まで見られた旧朝鮮総督府の庁舎は、景福宮朝鮮王朝の王宮、皇宮。風水思想に基づいて造営されていた内部を破却して1926年に造られた建築であるTemplate 要出典?。日本で事務所を開いていたドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計を行い、デ・ラランデの死後、日本人建築家(野村一郎、國枝博ら)が完成させた。4階建てで中央に大きな吹き抜けを持っていた。 建築概要 階数 5階建/構造 鉄筋コンクリート造 建坪 2,134坪1合6勺(約7,055m2)/総延坪 9,619坪7合5勺(約31,800m2) 軒高 75尺(約22.7m)、中央塔高180尺(約54.5m) 室数 257室/大広間 210坪(約694m2)/大会議室106坪4合(約351m2)/様式 復興式 外壁体 花崗石(ソウル東大門外産出)、内部壁間煉瓦積 工費 636万4,482円(外に外囲倉庫及構内整理費38万7,500円) 日本軍は宮殿正門の光化門を撤去し ref name= iwai 岩井長三郎「総督府新庁舎の計画及実施について」『朝鮮』朝鮮雑誌社 1926年4月p.10-26。復刻、皓星社 1998年。朝鮮王朝の正宮だった景福宮内部の建物を8割以上を破却し ref name= iwai / 、宮殿正面に総督府庁舎を建て、街から宮殿は見えなくなった。これらにより朝鮮民族(朝鮮人)にとって総督府庁舎は屈辱的な歴史の象徴ともいわれるようになった。これも現在まで続く反日感情の一因であると見られている。 独立後の庁舎 1948年8月、大韓民国政府の樹立に伴い旧総督府の庁舎は政府庁舎として利用され、中央庁と呼ばれた。大韓民国の成立宣言はここで行われている。 その後、韓国国内でも、旧植民地の遺構として撤去を求める意見と、歴史を忘れないため保存すべきという意見があり議論が行われたが、韓国の国立中央博物館として利用されることになった。依然として、屈辱の歴史の象徴であることには変わりはなく、王宮が破却された状態であったことにより、保存か解体かの論議がしばしば再燃した。最終的には、かつての王宮を塞ぐ形で建てられていることから、反対意見を押し切り、旧・王宮前からの撤去が決まった。撤去の方法として移築も検討されたが、莫大な費用がかかるため、1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体された。現在、尖塔部分は天安市郊外の「独立記念館」に展示されている。跡地には庁舎建設によって取り壊された王宮の一部が復元され、現在は同宮の正面入口となっている。 韓国における近代建築の保存 旧朝鮮総督府庁舎は撤去されたが、旧ソウル駅舎(旧京城駅)(塚本靖設計と言われる)や韓国銀行本店(旧朝鮮銀行、辰野金吾設計)などについては保存措置が講じられている。西大門刑務所は現在博物館となり周囲は独立公園となっている。 前史 朝鮮総督府設置に至る歴史については韓国併合を参照 朝鮮総督府の組織 総督官房 総務部 - 人事局、外事局、会計局 内務部 - 地方局、学務局 度支部 - 司税局、司計局 農商工部 - 殖産局、商工局 司法部 中枢院 - 朝鮮人名士を主体とする諮問機関。但し、政策決定には朝鮮人は関与させなかった『国史大辞典』第9巻、吉川弘文館1983年P.619水野直樹「朝鮮総督府」の項。。 朝鮮総督府の職制 総督 - 陸海軍大将を以て充てる、親任官。 政務総監 - 親任官。 長官 - 各部の長。勅任官。 局長 - 各局の長。勅任官。 参事官 - 奏任官。2名の内1名を勅任官にできる。 秘書官 - 奏任官。2名。 書記官 - 奏任官。19名。 事務官 - 奏任官。19名。 技師 - 奏任官。30名の内2名を勅任官にできる。 通訳官 - 奏任官。6名。 技手 - 判任官。337名。 通訳生 総督府附武官 - 陸海軍少将又は佐官を以て充てる。参謀。 専属副官 - 陸海軍佐尉官を以て充てる。 歴代朝鮮総督 日本政府は台湾に比して朝鮮を重視して、台湾総督と異なり、韓国統監・朝鮮総督には相当地位の高い政治家・軍人が任用された。総督は海軍大将の斎藤を除く全てが陸軍大将。 韓国統監 伊藤博文 曽禰荒助 寺内正毅 朝鮮総督 寺内正毅(兼任、後に専任) 長谷川好道 斎藤実 宇垣一成(臨時代理) 山梨半造 斎藤実 宇垣一成 南次郎 小磯国昭 阿部信行 年表 1905年5月28日 - 京釜鉄道開通式 1905年11月17日 - 第二次日韓協約(乙巳保護条約)締結 1906年2月1日 - 韓国統監府設置 1907年6月25日 - ハーグ密使事件 1907年7月20日 - 高宗退位、純宗即位。翌年にかけて日本軍は反日義勇軍1万4千人との1774回の戦闘を行った『国史大辞典』第3巻、吉川弘文館 1984年 P.813 臼井勝美「韓国併合」の項。。 1907年8月1日 - 韓国軍解散 1908年12月18日 - 東洋拓殖会社設立 1909年7月6日 - 日本、韓国併合方針を閣議決定 1909年10月26日 - ハルビンで伊藤博文が暗殺される 1909年12月4日 - 韓国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出される 1910年3月14日 - 土地調査事業開始 1910年6月30日 - 憲兵警察制度発足 1910年8月22日 - 韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)調印 1910年8月29日 - 朝鮮総督府設置 1911年8月23日 - 第一次朝鮮教育令。国語を日本語にする。 1912年1月1日 - 標準時を韓国標準時から日本標準時に変更 1914年3月1日 - 地方行政区画改正(府・郡・面制) 1919年1月21日 - 高宗死去 1919年3月1日 - 三・一独立運動始まる 1919年8月12日 - 斎藤実、第3代総督に就任 1919年8月20日 - 憲兵警察制度廃止 1919年10月5日 - 金性洙、京城紡織株式会社設立 1920年3月5日 - 朝鮮日報創刊 1920年4月1日 - 東亜日報創刊 1920年12月27日 - 総督府、産米増産計画立案 1926年4月1日 - 京城帝国大学開設 1927年2月16日 - 社団法人京城放送局、ラジオ放送開始 1927年5月2日 - 朝鮮窒素株式会社設立 1929年11月3日 - 光州学生事件( - 1930年3月) 1930年5月30日 - 間島5・30事件 1931年7月2日 - 万宝山事件 1931年9月18日 - 満州事変勃発 1931年1月8日 - 愛国団員・李奉昌、東京で天皇暗殺未遂事件(桜田門事件) 1931年4月29日 - 愛国団員・尹奉吉、上海爆弾テロ事件(上海天長節爆弾事件) 1936年8月9日 - 孫基禎、ベルリンオリンピックマラソンで優勝 1937年6月1日 - 金日成、普天堡襲撃事件を起こす 1937年7月7日 - 日中戦争勃発 1937年10月2日 - 「皇国臣民の誓詞」制定。 1938年2月26日 - 陸軍特別志願令公布 1938年3月4日 - 朝鮮教育令改正、朝鮮語の授業必須から外す 1940年2月11日 - 創氏改名実施 1941年3月31日 - 国民学校規定改正、朝鮮語の授業廃止 1941年12月8日 - 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発 1942年10月1日 - 朝鮮語学会事件 1944年4月1日 - 第1回徴兵検査開始 1944年8月23日 - 女子挺身隊勤労令公布 1945年8月9日 - ソ連対日参戦、豆満江を越える。 1945年8月15日 - 日本政府、ポツダム宣言受諾。呂運亨、朝鮮建国準備委員会結成 1945年8月21日 - ソ連軍、平壌進駐 1945年8月25日 - アメリカ軍、仁川上陸 1945年9月6日 - 呂運亨らは朝鮮人民共和国の樹立を宣言 1945年9月7日 - アメリカ極東軍司令部、朝鮮における軍政を宣言(即時独立否認) 1945年9月9日 - 総督府、降伏文書に調印 脚註 Template reflist? 関連項目 日本統治時代の朝鮮 韓国統監府 朝鮮総督府警察 憲兵警察制度 (朝鮮総督府) 朝鮮銀行 朝鮮放送協会 朝鮮総督府鉄道 外部リンク 旧朝鮮総督府 総督府変遷の写真 朝鮮近現代史(大阪産業大学藤永壯研究室) 植民地支配下の朝鮮 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月31日 (土) 13 32。
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万宝山事件(まんぽうざんじけん)とは、1931年7月2日に満州内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山の朝鮮人農民を、中国人農民が水利の利害関係より襲撃、さらに日本の警察官とも衝突した事件。この事件を契機に朝鮮半島で中国人排斥の暴動が発生し、多くの死者重軽傷者がでた。 原因と経緯 この事件の経緯については、中国、朝鮮語版とも全く異なる解説をしているので、中立の立場からすべて翻訳し、記述した。確認は詳細を見られたい。中国、朝鮮語版では侵略の口実を作る日本の陰謀であるとしている。 なお、アジア歴史資料センターの資料によれば、中国語版WIKIPEDIAの記述内容は、中国共産党の宣伝パンフレットの内容に一致している。また、朝鮮語版WIKIPEDIAに関しては外部リンク(韓国語)の内容と一致している。 ref name= shibun 参看 亜細亜歴史中心 資料 Ref.B02030177800 8頁 [1]具体的には、虚偽の報道を流し暴動を扇動し、その報道を行なった朝鮮人記者を口封じのために殺したとしている。 ref name= konkyo 両国のWIKIPEDIAでの記述は以下の通り。 中国語版WIKIPEDIA 朝鮮語版WIKIPEDIA 中国語版での解説 朝鮮語版での解説 日本語 日本の画策で発生した中朝の衝突事件。東北3省を横領するために世論操作の為に起こした。 日本の謀略で朝鮮人農民と中国人農民の間に水路問題で起こった流血事件。 偶然的事件。 詳細 年代 中国語版での記述 朝鮮語版での記述 アジア歴史資料センターによる内容 1931年 中国人の郝永德が長農稲田会社を設立(無許可営業) 日本が中国人郝永德を買収し行なった事業。日本が会社の資金提供。日本が郝永德をマネージャとして任命。 中国新聞報道に記載 ref name= B02030177800-1 アジア歴史資料センター Ref.B020301778002画像目。内容は中国版と一致。無許可については県の許可ありの記述無頼の徒、郝永德は某国人と長く相往来し、自ら私利を量り貨殖を心切なるを以って遂に今春 巧に長春租界内に長農稲田公司を設立して。。 ref name= B02030177800-13 アジア歴史資料センター Ref. B02030177800 13画像目 在吉林日本領事館記録 1931年4月16日 郝永德が万宝山付近12戸の中国人の土地を騙し取る。郝永德は騙し取った土地を違法にも朝鮮人 李升薰等188名に又貸し耕作をはじめさせた。 4月16日郝永德が蕭翰林等周辺11戸の土地の10年間租借契約を結んだ。(県政府の承認が無ければ無効であった)県政府の正式承認を得ないで、この土地を朝鮮農民李昇薫等8人に10年間賃貸契約を締結し、さらに李昇薫はこの契約を根拠で朝鮮農民180余人をこの地方に移住させて開拓に取り掛かった。 上記新聞報道で確認するも12戸ではない。 これらの朝鮮人は『馬家哨口』から『姜家窝堡』まで関を設けて堤を作って水渠を20里(1里=約500m)にわたって掘った。(写真) 朝鮮農民は最初に伊通河に通じる潅漑水路工事(長さ約 2,000余里、幅約9メートル)をおこなった。 同左 1931年5月20日 5月20日 馬家哨口の農家200人余りが上告をした。吉林省政府は第1273号《指令》を出した。指令は『朝鮮の移民は当局の許可をまだ得ていないのに勝手に農村に入り、約束を違えているので、県の役所に指令を出し、公安警察を出動させ、中止させて、朝鮮人農民を追い出す。』というものであった。朝鮮人はすぐさま立ち退く様子でこれで事態が終わろうとした。 この水路開拓と堤防築造が他人の土地である近所農地に影響し被害が多くなった。このために土着中国農民たちは反対運動を起こして現政府に嘆願申請をし、工事進行を強制停止させた。 p 契約書上では、現政権の承認がなければ日本の代理人である郝永德と中国人地主間契約が無効になり、朝鮮人農民たちの開拓作業も根拠が消える。 しかし、そこに日本の駐長春 田代重德領事が、「朝鮮人保護」の為に日本の警察を現場に派遣し、朝鮮人の立ち退きを制止し、しかも7月5日までの期限で築渠を完成するように命じた。 日本領事館所属警官6人がこの工事を強行し、日本警察60人が中国農民の反対を武力で抑圧した。水路工事は1931年6月末に竣工した。 7月1日 中国農民約 400人余りが共同で、溝を埋めて、堤を壊した。 中国農民約 400人余りが7月1日に一揆を起こし、潅漑水路約2里を埋沒する事件が発生した。現場にあった朝鮮人農民、日本領事館警察と中国人地主、住民の間に衝突が起きた。この時日本警察は中国人農民に無差別発砲し、多くの被害を出し、中国政府側はここに強硬に対抗したが日本は何らの誠意を見せず、曖昧な態度だった。 7月2日 日本の警察は中国農民を鎮圧し、双方は対峙した。後に日本武装警察を増やし、日本軍が警察を保護し工事は7月5日に完成した。 日本は朝鮮日報の記者 金利三を通じて、ニュースを捏造し、200人余りの朝鮮人が万宝山で殺され、さらに後の報道では、殺された朝鮮人が800人以上であるとした。これによって、朝鮮半島では大規模な中国人排斥運動が発生した。現地で142人が殺され、546人が負傷し、91人は行方不明となった。さらに財産の損失は限りなかった。 朝鮮内各新聞は同族を愛して同情する朝鮮民族の純粋な民族感情を刺激して朝鮮内に居留する中国人を敵視する運動を挑発させた。 アメリカ-イスパニア戦争時のように歪曲されたマスコミ報道で民族感情を刺激するのだ。このために仁川を筆頭で京城・原産・平壌など各地で中国人排斥運動が起き、 平壌では日中に中国人商店と家屋を破壊して殴り・虐殺する事件が何日間続く残忍な暴動で拡散していった。 朝鮮総督府と日本警察はこの事態を座視する一方、 形式的に制止の態度を見せたが極めて消極的で冷淡だった。しかしこの暴動が沈むと総督府政府は断固たる態度で広範囲な検挙を始めた. 7月14日 金利三は「吉長日報」の紙面で「謝罪声明」を発表し、自分が嘘の報道を行なったことを認め、自分が日本の領事館に愚弄されたこと発表した。日本は、これらの露見することをおそれ、吉林日本の警察署の朝鮮人の巡査 朴昌厦 に 金利三 を暗殺させ、口封じをした。 メモ 日本の主張 - 郝永德は以下の租借契約を結んだ。 これら朝鮮人が取水口から20里にわたる用水路を作った。(朝鮮語版では作成したのは日本) 7月2日、武装した満人農民約四百人と対峙した日本警察約60人が暴徒に対して発砲 中華民国資料 死者0 日本の主張 共匪資料では死者十名 7月2日に朝鮮日報長春支局記者金利三が200人が万宝山で死亡の報道 その後死亡者数を800人以上と報道の号外 7月5日平壌在住支那人が襲われ、死者37名、重軽傷者93名 ref name= B02030167400-1 アジア歴史資料センター Ref. B02030167400 画像1枚目 7月14日 朝鮮日報長春支局記者金利三、誤報であったとして謝罪訂正記事発表。 7月15日 金利三、日本警察巡査(朝鮮人 朴昌厦) ref name= B02030180500-1 http //www.jacar.go.jp/cgi-bin/image.cgi?image=2 refcode=B02030180500 page=1 magnification=100に殺害さる。 脚注 外部リンク および参考文献 太平洋戦争への道 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部 朝日新聞社 万宝山事件(中国語 簡体字) 万宝山事件(中国語 繁体字) ハンギョレ新聞 2001/03/13-350 万宝山事件(朝鮮語) 聖公会大学校 教授 한홍구 専門 韓国現代史 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月5日 (金) 21 42。
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1. 논문 林 炫情,李 在鎬,曹 美庚,淺尾 仁彦(2008)「韓国語学習者コーパスの構築 韓国語学習者作文コーパスにおける検索ツールの開発(言語と学習)」「電子情報通信学会技術研究報告」108(297)pp.21-26 李在鎬、林炫情、浅尾 仁彦、曺美庚(2009)「韓国語学習者作文コーパス(KC Corpus)について」朝鮮語教育研究会10周年記念大会 李在鎬・林炫情・曺美庚・浅尾仁彦(2010)「韓国語学習者コーパス(KC Corpus)について」『朝鮮語教育-理論と実践』5, 134-137. 林 炫情, 李 在鎬, 黄 晸煖, 浅尾 仁彦(2011印刷中)「韓国語学習者作文コーパス(KC Corpus)と韓国語教育への活用」『山口県立大学学術情報』4 2. 보고서 Korean Studies Grant 2008최종보고서 3. 기타문서류 어절 통계 학습자정보 오류태그
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1. 論文 林 炫情,李 在鎬,曹 美庚,淺尾 仁彦(2008)「韓国語学習者コーパスの構築 韓国語学習者作文コーパスにおける検索ツールの開発(言語と学習)」「電子情報通信学会技術研究報告」108(297)pp.21-26 李在鎬、林炫情、浅尾 仁彦、曺美庚(2009)「韓国語学習者作文コーパス(KC Corpus)について」朝鮮語教育研究会10周年記念大会 李在鎬・林炫情・曺美庚・浅尾仁彦(2010)「韓国語学習者コーパス(KC Corpus)について」『朝鮮語教育-理論と実践』5, 134-137. 林 炫情, 李 在鎬, 黄 晸煖, 浅尾 仁彦(2011)「韓国語学習者作文コーパス(KC Corpus)と韓国語教育への活用」『山口県立大学学術情報』第4号 2. 報告書 Korean Studies Grant 2008最終報告書 3.ドキュメント 語節集計 学習者情報 誤用タグ